Kirra NEWS  no.6


遊び

私は仕事関係以外ではサーフィンとキャンプが趣味で、金曜日の夜から出発して波が良いと、お猿のように波乗りして疲労で月曜、火曜は寝込んでしまい、週末はまた出掛けるので週休4日の極楽トンボのように思っている友人もいるのですが、年中こんな調子では勿論ありません。

日本ではいつの頃からか遊びにたいして悪いこと、ネガティブなことというイメージがあるようですが、ひたすら遊んでみると遊びにも努力もいれば、忍耐も、創造力もいることがわかります。

例えば焚き火ひとつとってみても、最初はゴミを平気でほうり込んでいたものですが、暖をとったり煮炊きをしていくうちに原始人の気持ちに帰るのでしょうか、誰彼ともなく火を神聖なものとして大切にしだします。そして季節や人数、目的に応じた洗練された焚き火になっていくのです。(余談ですが木を加工するにも困難だった時代、容易に物質を変化させる火は大変なものだったと私は追体験したのです。実際、大木を倒したり、丸木舟をくりぬくのに火は使われています)また宴の後のキャンプサイトを片付けたり、海岸の清掃活動に参加したり本来の遊びのイメージとは逆のことも遊びには含まれているのです。

そんな訳で遊ぶにも結構年期がいるし、仕事と同じで人脈も作っておかねばなりません。今の日本の会社のように休日出勤までして散々働かされて、定年後さあ遊べと言われても困るのは当然です。

欧米ではバカンスが長いので楽しみながら人生を考えることもできます。昔は日本もゆっくりと隠居の身になってゆき、その後もご意見番として残るというように、スムーズで境目ははっきりしなかったのではないでしょうか。最近ではそのような制度を取り入れた会社もあるようです。長い不況ですが私はこれが普通でこのまま続くと思います。今が遊ぶチャンスです。仕事と遊びのバランスを考え人生を見つめるのにとてもいいと思います。

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ホウ

ホウは家具材としては馴染みのうすい部類に入ると思うのだが、高知の市場にはよく出る。小さなものは値段も手頃で、もともと狂いが少ない木なので、棚板等に重宝する。柔らかいので刃物の鞘や彫刻の版木に使われる。削った直後は緑色をしているが茶色に変化してくる。

あまり特徽がなく優しい木味だが妙に縁があって使う。大径材は稀にしか出ないが佗びた感じでお爺さんのようだ。簡素な棚や台にはピッタリなのだがあまり売れない。これは私の力不足と木の文化の衰退が原因である。

ふんだんに木に囲まれて生活していれば地味な物にも目がいくが、どれか一つとなれば派手な物を選ぶのは道理です。骨董など置けば脇役にまわって良いのですが。この爺さんの木は倉庫の隅で私の腕の上がるのを待っている。




シオジとタモ

お客様に納品した際に、材はシオジですと言うと、聞いたこともないと、めずらしがられるが、洋間の造作には普通に使われている。タモと言ったほうが分かり良いかもしれない。

英語ではこれらをアッシュと呼ぶ。野球のバットがそうである。シオジはイスやテーブル等何にでも使いやすい。しかしシオジとタモを見分けるのは専門家でも難しい。学術的にも親戚であるらしいが、製材屋は樹皮でわかるという。ただ一つ言えることは高知の業界ではタモはシオジより一格劣ると思われている。

これには私も同意見だが、正確にいうと‘高知の市場に出る材では’となる。シオジがやや女性的でしっとりした印象があるのにくらべ、タモはガサガサとして男性的である。しかし常にタモが劣るわけではなく、木によって様々である。ことによると、どうもパッとしないシオジをタモと呼んでいるのかもしれない。売買の時には売り子はシオジと譲らず、買い手はタモと言ってまけさせようとする。市場に通い始めてまだ7年だが、その間にシオジもめっきり出なくなった。この商売の先行きは不安である。

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時代は変わる

去年の夏、立て続けにサーファーが流されて漁船に救助され、高知新聞に非難の記事が大きく載った。それに腹を立てて私は“サーファーはそんなに悪いのか”という題で投書した。結構皆読んでいて驚いた。その内容は毎年多くの水難救助をしているサーファー達を、無謀な初心者と一緒にするなだった。要するにまだ一般に知られてないスポーツなのだ。

記者の理論によれば、多くの遭難者を出す登山などは極悪人のスポーツである。実は私は中学、高校と登山部にいて石鎚、三嶺あたりは庭のようだったのだか、企業で管理職をしていた親戚に、登山ははぐれ者のすることと言われたことがある。恐らく野球部あたりに入っておれば満足だったに違いない。ヨーロッパでは貴族のスポーツですぞ。天皇家も登山好きじやないですか。

確かに当時は岩壁の登?拳や冬山縦走などが取り上げられアウトロー的なイメージがあった。今回の記事同様、無謀登山云々の議論がマスコミをにぎわせていたことを思い出す。それが今や中高年の登山がブームで、批判的であった私の両親もせっせと登っている。まあ中高年のサーフィンブームは来ないと思いますが、ハワイにはオールドという名の海岸があって、そこでは年寄りか優先して波乗り出来るのだ。

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数年前から身の能力が著しく低下している。あまり匂わないのである。原因は粉塵とか塗料とか考えられるが、わからない。五感の中では最も軽んじられているが、この喪失感は耐え難いものがある。季節の風を感じることもできないし、料理も旨くない、我のすかしっぺがどのくらいの効果を上げているのかも判断できない。友達が上等の日本酒等ティスティングしていると特に腹が立ちます。だいいちガス漏れも火事も気がつかないのだ。なにやら真空の中で生活しているようである。この症状は一進一退を繰り返していて、朝から焼酎や醤油の栓を抜いては“ああ今日は鼻が生きている”と試すのは寂しいものです。




常識のウソ

木に関してはこれが多い。例えば年輪のつまっている木はど強いと思われているが、広葉樹では逆である。とくにケヤキ、シオジ、クリといった木は導管が年輪を構成していて、間隔が狭いと軽くてスカスカになる。特に細かいものは一年の幅が1ミリ以下でヌカ目などという。では価値がないかというと、これまた逆で高額で取引される。関東ではオニケヤキと呼ばれる目の粗い派手なケヤキが好まれ、関西では細かいケヤキが好まれるらしいが、前者は成り金屋趣味で、後者は数寄屋風といえるかもしれない。都の変遷に関係があるのでしょうか。いずれにしてもヌカ目の木は全国的に高価である。

では年輪の広い木に価値がないかといえばそうではなく、イスのように強度を要する家具に使う。毎日使うテーブルにもいいだろう。ケヤキの大黒柱もヌカ目では具合が悪い。仙台箪笥はオニケヤキを使いながらも大胆な金具で調和をとっている。

一方、年輪の細かいものは座卓に使う。年を重ねた材は落ち着いていて、部屋の雰囲気をこわさない。箱物にも狂わないので向いている。導管に吸い込まれて漆がよく馴染む。木そのものの良さを前面に出してやるのがいい。これがベンチの座板等に使うと、もったいないというか、スキッとしない。

このような年輪の違いは環境によるものである。畑や境内に植えられたケヤキは成長が早い。山のケヤキもボウズ山から育てば成長も早いが、徐々に他の木におされてゆっくりとなる。稀に余程厳しい環境で育ったのか芯まで細かい木もある。私のような若輩でも、さばいた木を見ればわかるのである。なぜなら外からは見えないから。

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蛍が消えた日

伊野町の波川には仁淀川からの石積の用水が流れていて、幅3メートル位の両岸には草が生え、水面は深い所にあり光を遮って水草が涼しげに揺れている。初夏には蛍が舞い、今では少なくなったオハグロトンボや糸トンボもいた。私はこの用水を密かに伊野町の世界遺産に指定していた。それが先日通りかかると、コンクリートの三面張りに改修されているではありませんか。これはもう狂人のやることです。表向きは治水ということでしょうが、土建屋と政治がらみであることは誰の目にも明らかです。これが政治というのですから日本の凋落は避けられません。なぜ税金をつぎ込んで貴重な財産を壊すのでしょう。

土建業が全て悪い訳ではありませんが、本当に治水が必要なら、もっと自然を残す工法を取るべきです。実際ドイツ等ではそうしてます。これからはそういった方向てビジネスャンスを見つけて頂きたい。もう蛍が見られないことは夏まで待たなくとも明らかです。

用水をのぞき込んで、水草の下にはナマズやフナがいるんかな−と考えるだけで、心がなごみます。コンクリートの用水は子供が落ちれば怪我するし、水が出ていれば取り付くしまもありません。このようなものは人をすさませます。埼玉が暴走族発祥の地と言われるのは、東京のベッドタウンで核家族か増えたこともありますが、もともと自然か少ないうえに開発が進んだせいたと分析しています。仁淀川河口付近も護岸が進み都会の死んだ河と様子が似てきました。伊野町から河口にかけて、見るたびに河は弱っているようです。

また、ちょっと質の違うことですが、数年前仁淀川の南の丘に、カンポの宿が新築されました。やたら背の高い洋舘風の建物は伊野町のイメージを安っぽくしてしまいました。これか京都だったら大変です。実は内心この程度でホッとしています。尖んがり屋根の付いたシャトーだったらラブホテルが伊野町を見下ろすことになるのですから。また、仁淀川沿いの広岡にある水門の施設は緑色のメルヘンハウスで一見の価値ありです。とても正気の沙汰とは思えません。仮に個人の建物であっても、景観には留意しなければなりません。家でフリチンになるのは勝手ですが、街を歩けば罰せられるのと同じことです。狭い国であるからこそ必要なのですが。

このような例は高知県のみならず全国にあり、建設省の予算を削って自然保護や景観保全の機関を作るべきです。もっとも官の運営ではどうにもならんでしょうし、資金もやはり浄財で賄うべきでしょう。財政危機のなか、まだ吉野川に可動堰を作ろうとしている人達ですから。

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