Kirra NEWS  no.10


木工家体格論

何人もの木工家に会ってみて、木工家体格論なるものをあみだした。なんのことはない、製品は作り手の体格に似るということである。これは私にもあてはまることで、中肉中背の妥当な製品を作っているのではないでしょうか。Yチェアで有名な、椅子デザイナーのハンス・ウェグナーも自分の身長体重が平均的なデンマーク人と同じであることを自慢にしていたそうです。

誰でも想像がつくように、作り手はついつい自分の体格を尺度にしてしまいます。椅子のような体に直に触れるものなら、なおさらのことです。椅子作りで、作り手の体格が、余りに使い手と違ってしまえば、いちいちチェックしてもらわなければならないでしょう。私の作る椅子は、日本人の空間意識に配慮して、極力背もたれの高さを低くしているのですが、身長180センチ以上の方にはこころもとなく感じられるかもしれません。

数年前、人間国宝の木工家、黒田辰秋の回顧展が豊田市立美術館で開かれ見に行ってきました。正確なことはわかりませんが、当時としては大男で、棟方志巧は彼の肩程の高さです。棗(なつめ)等の茶道具は、寸法に決まりがあるのでそれほどでもないのですが、大らかな造形でした。手箱等は迫力も去ることながら、実際に大きく仰天しました。圧巻は映画監督の黒澤明の発注による椅子です。大人2人で運ぶことの出来ない大きさと量感でした。黒澤明も大男でしたので、思う存分、腕がふるえたのでしょう。

この椅子は、インタビューやサントリーのCM等で、いつも使われていたので、御存知の方も多いのではないでしょうか。黒澤明の作家への配慮だったのでしょう。私は長いことアフリカの椅子だと思っていました。

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楢(なら)

楢は英語ではオークといい、ドングリがなる。ただし高知のドングリは常緑の樫のもので、楢は落葉樹である。北海道が本場で、材はやや茶色である。

もう5年以上前になるが、原木市場に直径が80センチ、長さも同じ位の楢が2本出たことがある。そのようなものは単コロと呼ばれ、臼のような感じだ。何かの都合で短く切られたのだろう。せいぜい椅子位しか出来ないので、安いのだ。外周はきれいに面取りされていて、貝がくっついている。どうやら木場あたりで、汽水域に漬け込まれ大事に養生された材の半端だと想像出来た。

早速買ってきて製材所に持ち込んだ。私はズブ挽きといって、そのままドンドン、スライスしてくれと言った。挽き手は、楢は柾取りが基本だと言う。しかし強くは反対しない。なぜなら高知では楢はめったにお目にかかれないので自信がないのである。私も全く不案内で、手持ちのなかにも楢によく似た材があるのだが、色が白く、それはシイであると言う人もいる。

乾燥が進むにつれ、なぜ柾挽きかという訳がわかってきた。板目の部分は割れが激しいのである。また楢の特徴であるトラ杢は、柾目の部分にしか出ない。しかし木味は思った通りの上等なものだった。最近、その楢を使ってウィンザーチェアーを作ってみた。堅いようで、刃物の通りも良い。逆目もあまり出ず、家具作りには良材である。

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寸法の話

現在はメートル法の世の中である。世界共通の単位として、赤道から北極までの大円距離の1千万分の1が1メートルと定められている。

だがこの単位は、死んだ単位で、天体間の距離のような、とほうもない空間では問題ないが、建築や身の回りの器物の大きさを表現するには、不便というか、根拠がないのである。

これに対して、古来の尺、寸は生きた単位である。1尺は正確にいえば303ミリである。肘から手の甲までの長さとも言われている。御存知のように大工は今でも使っています。6尺が1間で約1.8メートル。この単位が家造りの基本になっていて、ふすま等の建具の寸法も自動的に決まり、便利なものです。1間四方、畳2枚分の1坪という単位は現在も使われています。

1885年に日本がメートル条約に加盟して、尺貫法が廃止されるまで70年以上かかっているのをみても、相当な抵抗があったのでしょう。

では、私の仕事である木工ではどうかというと、情けないことにメートル法である。なぜなら、定規やドリルの刃の直径に至るまで全てメートル、センチ、ミリなのである。

これが尺、寸を単位とすれば、椅子の脚の長さは420ミリだと1尺4寸、テーブル甲板の長さは1間、幅は半間、厚みは一寸(30ミリ)というように非常に簡単なのだ。これは本来、人間の持っている長さに対する絶対感覚のようなものではないでしょうか。

目の前にある箱の大きさを伝えようとする時、たいてい何センチであるとは言わずに、ミカン箱より少し大きいとか、小さいとか、そんな表現をするはずです。もし尺を日常使っていれば、具体的な数字が出てくるのではないでしょうか。なにしろ誰もが「寸法は?」なんて聞くくらいですから。

私の仕事でも、尺を使っていれば、あちこちの寸法は暗記出来、いちいち図面で確認することもないでしょう。

当然、製材所も尺を使っています。私が丸太を持ち込んで「45ミリの厚さに挽いて」と言いますと、尺貫法の関係から機械の目盛りにはミリも並記してありますから、挽き手は怪訝な顔をしながら、いちいち「1寸5分やな」と返事するのです。(1分=3ミリ)

ここでも古来の単位は便利なもので、もし、仕上り寸法で一寸の厚みの板が欲しい場合は、乾燥時のねじれや、収縮を予測して3分か、4分を加えます。少し厚めの板は、さらに1分か、2分を加えるといった感じです。鋸屑として失われるのは1分です。とても簡単なのです。また大きな機械の回転する騒音のなか、指で寸法を指示するにも都合が良いのです。そんな訳で、1時間も製材所にいれば私も自然に寸を使いはじめます。

では、メートル法を作り出したと思われがちな、アメリカはどうかといえば、なんのことはない、現在でもフィート、インチを使っています。1フィートは12インチで、304.8ミリ。興味深いことに1尺と1.8ミリしか違いません。体格の違いを考えると、この一致は偶然によるものなのでしょうか。そもそも尺の起源は中国らしいのですが。

今さら、尺貫法に帰れと提唱するつもりはありませんが、家の設計や家具の配置等、空間を認識するには極めて有効です。

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手抜きのすすめ

手抜きというと悪いことにとられがちですが、実はどんな仕事にも加減は必要で、入念にする所と、そうでない所のメリハリをつけるということです。

例えばテーブルの甲板の裏側を、表と同じように念入りに研摩する木工家はいません。表の八分程度の仕上りにするのが、一般的です。

私の場合、接合部分には細心の注意をはらうが、角を丸めたりする仕事は、結構適当である。あまり根の詰んだ仕事は、使う者にも息苦しさを感じさせる場合があります。

ラフな部分があってこそ、緻密な細工が引き立ちます。よって上手に手抜きが出来なければ、製作に時間がかかるばかりでなく、品物もリズムを欠いたものになりやすいのです。

とは言うものの、木工は芸術作品ではありません。接合部分は正確に作り強度を出し、全ての面は十分に研摩しなくてはなりません。実際はあまり手抜きの出来ない、難儀な仕事です。

 



古色について

古色を辞書で引くと、「年を経た色。古びたようす」とある。白崎秀雄の「千代鶴是秀」を読んでいて思うところがあった。というか受け売りに過ぎないのですが。

千代鶴是秀は刀匠の家系でありながら、ノミや鉋等の大工道具を打った鍛冶屋である。昭和32年84歳で亡くなっている。その鍛えた道具が素晴らしく、造形は言葉が見つからない程のものだ。切れ味も鋭いらしい。残念ながら、使われて研ぎおろされた道具は、現存しないが、一部が博物館や、コレクターのもとにある。

その千代鶴も、何度か刀を打ったことがあるという。詳しいことは省くが、日本刀の鑑定会に、2尺2寸の刀を出品したおり、当代の権威者達は「どうやら新刀ではない。私達の力を試すために無銘の古刀に銘を切ったものに違いない」と結論したそうだ。
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千代鶴は異を唱えることもなく、以来刀を打たなかった。(詳しい事は、本を読まれたし)

白崎秀雄によれば「美術工芸の世界では、古作の優品を技工の優れた名手がよく学んで作ると、それが古作そのものに見誤られることがある」という。

木工家、黒田辰秋の作品を見れば、角は適度な丸みをおび、漆はいかにも時を経たような、まったりとした艶である。しかし、角は容易に丸くはならないし、およそ茶道具であれば、めったに外気に触れることもないのである。こうなれば漆は全く変化しないのだ。良質の根来塗の腕が少し変化したと感じるのは毎日使っても1年を要す。

粉引の猪口は半年の使用で結構な景色が出たりするが、磁器は長いことその清潔さを保つ。下世話な話だが、私の作るテーブルも頻繁に焼肉等していただければ、素早くあめ色になってくる。

だが、幾重もの箱にしまわれ、時々ポンポンと白粉のようなものでたたかれる刀剣が経年変化を起こすとは考えにくい。どうやら、ある種の古色とは作品誕生の時から備わっていて、作家の意図である。このあたりに造形の秘術が隠されているのかもしれない。


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